大相撲3月場所が終わった。予想通り横綱白鵬が優勝だ。(照乃富士の頑張りで盛り上がった)実は、私は1月に「相撲 ( My opinion about Sumo )」というブログを書いた。http://denden69mushi.blogspot.jp/2015_01_01_archive.htmlのであるが、最近私ととてもよく似ている意見を書いている本に出会った。
藤原新也という人が書いた本なのだが、その相撲に関する部分を紹介する。(藤原氏の実家は旅館を営んでいて、幼少期その旅館に地方巡業に来た力士が宿泊をしていた思い出を書いているのである。)
所要で青森に行った。北国の雪景色を見ていると、ふと青森県弘前市出身の先代若乃花のことが頭を過った。私の家の旅館は子供の頃巡業の力士が泊まった。巡業では花籠部屋を割り当てられていた関係で先代の若乃花も泊まった。若の海や髭の行司式守伊之助などとは親交もあった。若乃花がその頃、幕内のどの位にあったかは記憶にないが、彼に関してはある鮮烈な思い出がある。老松公園で行われた巡業の稽古土俵で他の力士と稽古している時に、相手から張り手を食らわされ、若乃花の歯が折れたのである。
昔は巡業の稽古でも手加減はせず、ずいぶん激しかった。歯の折れた若乃花はその一番を終えると土俵際に行って口に含んだままの折れた歯を血糊と一緒に樽の中に吐き出した。そしてまた何事もなかったように次の一番挑んだ。私は呆然とその光景を見ていた。平成時代のお坊ちゃん相撲では考えられない光景ではある。それより驚いたことはその翌日、土俵上で張り手を食らわした力士が他の力士と一緒に私の旅館にやって来て、若乃花らと同じ鍋のちゃんこをつつき、楽しそうに歓談していたということである。子供の私の目には激しい喧嘩をしたかに見えたその両者がまるで兄弟のようにふるまっていることが不思議でならなかった。青森の雪景色を見ながらそんな思いでが甦り、それとともに少し前の大相撲の八百長騒ぎに思いが及ぶ。この大騒ぎ、昔から大相撲に馴染み、毎年のごとく巡業を迎え入れていた私のような者の目からするなら、大相撲をあたかも詐欺集団のように見なす平成と言う時代のマスコミや大衆意識に時代の流れというものを感じざるをえない。
私は大相撲とは純粋な意味のスポーツではないと思っている。かつて貧しい時代の地方の農家の次男坊などがしばしば大相撲に入門したが、それは同じ命運を持つ者同士が寄り集まった新たな村社会でもあった。彼らは運命共同体として相撲協会会長の元に結束し、興行を行い、娯楽の少ない時代の民衆を大いに楽しませたのである。そんな大相撲の巡業は子供の私の目に、同じようにのぼりを立てて興行を行う地方巡業の大衆演劇と同じように映っていた。演劇的とまではいかないがそういった含みを大相撲は持っていたように思うのである。地方巡業では必ず出てくるショッキリや手拍子や「ア、ドスコイ」「ドスコイ」という合いの手の入る相撲甚句などはまさに「芸能」そのものであった。相撲甚句の七五調の囃子歌には男女関係のくすぐったい歌や人を笑わせるような社会風刺もあった。大相撲の真骨頂は本場所ではなく地方場所にこそあったのだ。そこでは真剣勝負は百番あれば数番程度だった。それでも充分面白かった。みな演技力を発揮したからだ。相撲とはそういうスポーツなのである。そんな私の相撲に対する経験からするとこういう運命共同体の中で人情や人間関係の按配が生まれないのが不思議であり、逆にその按配によってこそ共同体は維持されていたのではないかとさえ思う。そして昔の観客もそういった意識をも加味して大相撲を楽しんでいた。いまでも思い出すのだが、私の家と親交のあった男前の若の海がある場所に七勝七敗で千秋楽を迎えた時、相手の力士はなかなかの演技力を発揮して若の海に星をひとつ貸した。私の母は負けてくれた相手側力士を「やっぱり優しい男やった。」と讃えたものである。按配相撲もあったが当然真剣勝負もあった。真剣勝負もあれば人情の絡んだ按配相撲もあった。それを見越して昔の観客は大相撲を楽しんでいたということだ。そこには人間世界の矛盾を許す寛容や人間的なふくらみというものがあった。
大金の絡んだ平成の大相撲と、星の貸し借りと言う昔のそれを同列に比べることは出来ないかもしれないが、大相撲の不幸はフェアプレー精神や勝つか負けるかの勝敗のみが価値を決定づける近代スポーツ観がこの日本に定着し、その一視点からしかスポーツ観戦できなくなってしまった平成の民の心の狭量さとも無関係では無いように思われる。
私が以前書いた記事ととてもよく似ている。でも藤原新也という人が書いた文章はとても説得力があって「成る程」と思わせてくれる。
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